「新世代のための月間」に寄せて

パストガバナー 瀬 戸 新 一
 熱射の昼下がり南海電車の北野田駅に降りた。前田ガバナーと角谷代表幹事がプラットフォームで一緒になり、おぼろげな会場案内をやっと確かめた。タクシーに便乗して埃っぽい町外れを走る。町づくりから外れたような田舎道である。
 粗雑な風景に忽然と瀟洒なビルが見えた。精華高等学校とある門衛を入る。赤褐色の三階建て、五段ばかり上るとホテルのロビーみたいな玄関で、学校の方々やロータリアンが大勢のお迎えである。これは少々勝手が違うなア。
 こちらへどうぞと、清潔なタイル張りの廊下を可愛い女生徒二人に案内される、理事長室、ふかふかの応接セットが並ぶ向うは間口五間、床から天井まで総ガラス、芝生に手入れの行き届いた庭木と石の配置、これは豪邸の趣である。
 前日、近親者の会合で、「明日は高等学校へ行って挨拶を…」といったら、教育関係の者が「今ごろの生徒は、人の話なんか聞こうとしない。よほど面白いことを短く云うことだ。私語が無くなった代わり携帯電話をいじっている」との忠告。
 戦後50年、アメリカ文化の中で遮二無二働いて、家庭や子供たちを顧みる余裕すらなく、いちばん大切な「しつけ」をすることが出来なかった。その子供達が親になる頃、自動車、冷蔵庫、スーパー、コンビニ、サラ金、モノあふれ、人のこころが荒れてきた。それで多分に家庭のきずなが薄らいできたようである。
 午後三時創立総会がはじまる。階段式の大教室に左側は夏休みというのに教職員全員、真ん中の列は男女生徒数十人、その右側はスポンサークラブの会員が控える。
 正面に対するテーブルに、前田ガバナー、水田直前ガバナーに私が並んだ。
 総会は整々粛々と行なわれた。私は生徒の表情と先生方の席をみながら、指名されればなんといおうかすっかり予定を狂わされて、ただあれこれ連想していた。
 今日の日経新聞に村上信夫さん(元帝国ホテル専務取締役総料理長)が載っていた。昭和17年ホテルの料理場から佐倉の連隊へ入営した。生きて帰れるとは思わなかった。前後に朋輩で厨房から出征したのが13人、うち生還が3人。その頃私も比島バターン半島で悪戦苦闘していた。60年「戦争と平和」の隔たりである。
 目の前に居る生徒や若い先生とあまり違わぬトシだった。とつおいつ思い出していると、校長先生がご挨拶に立たれて「インターアクトのことはなにも知りませんが…」で我に帰った、私の出番は過ぎていた。
 1920年ごろからロータリーは、青少年のための活動をはじめた。まず障害のある少年少女を援助する。それが100周年記念に「世界からポリオを撲滅する」運動にまで発展した。比較的恵まれない青少年に将来社会に有用な人材になるよう助成する活動から始まって、世界的に留学先を広げる財団奨学生になった。それから青少年活動を進めて、新世代の健全育成のため、地域のロータリークラブに提唱されてきたプログラムが、ローターアクト、インターアクト、青少年交換、ライラなどである。1962年国際ロータリーは、高校生の年令層14〜18才にインターアクトを各地のロータリークラブに推奨することになりました。
 精華高等学校の教育目標が、「自立、協調、創造」とあって、その校風とほどよい躾はそのままインターアクトの指導理念「地域へ奉仕と国際理解」に繋がりそうである。生活上の判断基準も単に「損」か「得」かだけでなく、みんなのためになるかどうかが大切な基準になり、人と人との出会いを大切にする高度な生活実感を醸成するのがロータリーの「しつけ」であります。
 堺東南クラブのみなさん、誠に奇特な奉仕をしていただき、ご苦労さまでした。

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