〜 第二部 〜
インターシティー・ミーティング



〔1〕

 副SAA茨木孝一 皆様、ようこそだんじりの町・岸和田にお越しくださいました。ただいまよりIM第6組インターシティ・ミーティングを開会いたします。
 私、第二部の司会進行役を仰せつかりました岸和田ロータリークラブ副SAAの茨木と申します。どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)
 それでは、早速ではありますが、本日の講師のご紹介を岸和田ロータリークラブ前川篤副会長、どうぞよろしくお願いいたします。

                ←前川 篤副会長

 前川 篤副会長 本日ご講演いただきますペマ・ギャルポ先生をご紹介させていただきます。
 国際情報コメンテーターで、政治学博士、チベット文化研究所の所長であられますペマ・ギャルポ先生は、1953年6月、チベットのカム地方ニャロンのお生まれでございます。1965年、『チベット潜行10年』の著者木村肥佐生 先生並びに『悪の論理』で話題になりました著者倉前盛通先生のお世話で来日されました。1976年3月、亜細亜大学法学部を卒業され、同9月、上智大学国際学部大学院に入学され、80年、ダライ・ラマ法王アジア・太平洋地区の担当初代代表に就任されました。1991年、日本作家クラブのメンバーになられ、同年、岐阜女子大学客員助教授、92年、客員教授、96年、教授、97年、拓殖大学海外事情研究所客員教授、98年、慶応義塾大学訪問教授、95年、第32回翻訳出版文化賞を受賞されております。
 主な著書に、『おかげさまで生きる』近代文芸社、『国をすてられない日本人の悲劇』講談社、『日本の宗教』総合法令出版、『チベット入門』日中出版社、『お蔭様イズムの国際関係』万葉社、『立上れ日本!』雷韻出版などでございます。
 本日は、「異文化コミュニケーション・信頼と友情」というテーマでお話をいただきたいと思います。ペマ・ギャルポ先生、よろしくお願いいたします。  講 演
      テーマ「異文化コミュニケーション・信頼と友情」
      講師 ペマ・ギャルポ(PEMA GYALPO)
      チベット文化研究所所長 岐阜女子大学教授 拓殖大学客員教授

              ←ペマ・ギャルポ博士

ペマ・ギャルポ博士
 こんにちは。きょうは非常に重要な会で話す機会をいただきまして、大変感謝しております。さらに、まず前置きしたいのは、きょう私が話すことは、もしかしたら独断的な要素もあると思いますので、これから私が話すことはすべて私個人の責任において話すことであって、決して私を紹介してくださった方々、あるいは前もって一度お目にかかりました実行委員長、副委員長、さらに先ほど控室で会った方々の陰謀ではないということを申し上げないと、誤解を招くと思いますので、私はそういう方々と話しても、きょうの内容については打ち合わせを細かくしておりません。そういう意味で、すべて私個人の責任であると理解してほしいと思います。
 きょうは、「異文化コミュニケーション」というテーマになっておりますが、異文化といっても、必ずしもほかの民族や国だけではないと思います。同じ国の中においても、年齢によって、地域によって、性別によって、当然違う文化があり、違う価値観があり、また同じ言葉を使っても、その言葉の定義が違うことがあると思います。そういう意味で、きょう私がここで話すことは、どちらかといえば、現代社会における国家という一つの境界線を超えたところの民族、あるいは制度、そういうものとの付き合い方を中心に話をしたいと思っております。
 異文化といっても、言葉の果たす役割、言葉を媒体としてのコミュニケーションの果たす役割は、わずか30%に足らないと思います。専門家によると27%ぐらいで、残りのその人の服装やジェスチャー、声、あるいは聞く人自身の歴史観や宗教観、あるいは教育──この場合の教育は、読み書きや本を読んでいるという意味での教育ですが、そういう教育の有無の関係がかかわってくるわけです。ですから、皆さんにここで改めて私が異文化のコミュニケーションだけについて話をしても、恐らく皆さんの半分以上の方々は私よりも先輩の方々ですので、皆さんに私のような若輩者が何か言うのはかえって失礼かもしれません。
 ただ、今学校でもコミュニケーションという講座があるわけですので、やはりこれは勉強することによって上達できるということにはなると思います。上達すると言っても、それは言葉の話術師になるという意味ではありません。話術師的な人は、確かに言葉の使い方は非常にうまいですけれども、きょう私がここで話したいコミュニケーションは、そういう話術師的な要素を持ってコミュニケーションをとるというよりも、お互いに言葉を通して、あるいは態度を通して、人間として付き合っていく上において信頼を深め、そして友情を生み、育むような、そういうものに対して多少役に立つようなことがあればということで、こういうテーマを選びました。
 そもそも私は、今から37年前(1965年)12月11日に日本に来ました。まだ14歳でしたが、インドでは私は一応高校生になって日本に来ました。日本に来る前に自分なりに日本という国について多少勉強してきたつもりでした。ですので、先ほど副会長からご紹介がありましたように、私が羽田空港に着いたときに、木村肥佐生先生が迎えに来ていただいておりました。木村肥佐生先生はチベット語が非常に流暢です。第二次世界大戦のときに日本の特務機関としてチベット語、モンゴル語を勉強して、わずか17歳でチベットに潜入しました。その先生が迎えに来ておられましたので、全部チベット語でした。でも、私はインドから持ってきた手紙があったんです。その手紙の住所は埼玉県でした。私は先生にその手紙を見せて、「先生、私たちはこういう場所に行くんだけれども、人力車を手配してください。」とまじめな顔をして言いました。私が先生に人力車をお願いした理由が2つあったんです。一つは、経済的に多分こっちの方が安いだろうということを考えておりました。もう一つは、私は勉強してきて人力車という言葉を知ってますよということで、なるべくいい印象を与えようと思ったんですけれども、先生は何もおっしゃらないで、ただ私たちをバスに乗せました。私たちは5名いたんです。
 この5名でバスに乗って埼玉の方に向かいましたけれども、途中、車の中で先生は、「これからあなたたちをスポンサーのところへ連れていきます。」とおっしゃられました。スポンサーのことはチベット語、日本語、あるいはインド語、みんな共通するんです。ただ意味が多少違うかもしれません。ダンナー(日本語では旦那様)、ダーナ(施しをする)人です。ですから、旦那様のところへ連れていくとおっしゃったんです。「施しをする旦那様のところへ連れていく。今晩会います。」と言われた途端に、また緊張がわいてきまして、じゃあ、何かあいさつしなくちゃ……と思ったんです。
 正直言って、人生で初めて飛行機なるものに乗ってきたんです。そのころはまだDC−8型の飛行機ですから、ニューデリーを出て、途中カルカッタ、バンコック、香港に寄らないと油が足りないんです。最初は、ニューデリーから香港まで機内食が2回出るわけですけれども、これは有料だと思って、私たち留学生は5人いたんですが、5人とも「いや、結構です。」と顔はニコニコして、お腹はグルグルと鳴るんですけれども、断りました。香港から東京へ着く間に隣の人の残りの食べ物を見て、「幾らですか。」と聞けば、もしかしたら「どうぞ。」と言われるかなと思って、英語で「すいません、これ幾らですか。」と言ったら、「これはただです。」とおっしゃったんです。それで、すぐ手を挙げて「食べます。」と言って、急に食べたものですから、友達は飛行機の中で吐いたりもしていました。そういう状況の中で本当にフラフラしておりました。でも、スポンサーのところへ行くんだから、何かちゃんとあいさつをしなくちゃ……と思って考えているうちに、スポンサーのところへ着きました。



←BACK     NEXT→